写真家、星野道夫が亡くなって、もう5年になる。

次の文章は5年前の秋に、長い手紙をくれた高校時代の友人に対し、
何か長い返事を書こうと思って書き綴ったものです。

最近は星野道夫のことが話題になることも少なくなったけれど、
彼の死は僕の人生の中ではちょっとした事件だった。

そんな気持ちを忘れないために、これを残しておきたいと思う。

 

 

星野道夫のこと



 動物写真家の星野道夫を知っているだろうか。アラスカに住み、カリブーやグリズリーなどの野性動物のみならず、アラスカの全てを題材に素晴らしい写真を撮っている。いや、撮っていた。
 新聞や雑誌にも意外にたくさん取り上げられていたので知っているかもしれないが、今年の8月、カムチャッカ半島のクリル湖畔でテレビ番組の取材中にヒグマに襲われて亡くなった。夜、テレビの他のスタッフは小屋で寝ていたのだが、彼だけは小屋のすぐそばに自分用のテントを張って眠っていて、そこを襲われた。


 最初、この事を新聞で読んだ時、信じられなかった。写真集を出すほどアラスカで多くのグリズリーを撮り、クマの行動については熟知していたはずの人がなぜ襲われたのか。
 「サケが川を上る時期は、エサが豊富だから人を襲うような事はない。」
とテレビのスタッフに言っていたそうだが、その判断が甘かったのか。


 僕が最初に星野道夫を知ったのは栄の丸善で見つけたWWFのカレンダーだった。確か1989年のカレンダーだったと思う。そこには雪を戴いたマッキンレー山をバックにどこまでも続く草紅葉の原野にたたずむムースや、ワタスゲの穂が逆光に輝く草原に群れるカリブーなどアラスカの野性動物の姿があった。僕はスケールの大きい、しかも悲しげな 詩情のあるそれらの写真にすっかり魅せられて、3年ほど続けて星野道夫のWWFのカレンダーを買った。どの写真にも突き放すような厳しく、人間のことなど歯牙にもかけない雄大なアラスカの自然が写しとられていた。

 最近は西表島やらバリ島やら、南の島も大好きになってしまったが、もともと僕は北方指向で、学生時代は東北や北海道など北の山ばかり登っていた。その延長上にあるアラスカは、一番近い氷河の見られる場所(当時はソ連なんて行ける所とは思っていなかった)として僕の長きにわたる憧れの地であった。

 その夢がかなったのは結婚して4年目の1986年のことだった。まだ「地球の歩き方」のアラスカ版なんてないころで、旅行会社でアメリカのドライブマップである「MILE POST」をコピーさせてもらって持って行った。レンタカーを借り、キャン場にテントを張りながら約一週間、アンカレッジ周辺やデナリ(インディアンの言葉で“偉大なる者”の意味でマッキンレー山を指す)国立公園などを巡った。その時の事を思い出すと本当に夢のようで、ろくに英語をしゃべれもしないくせによく行ったなと思う。

 アラスカの8月はもう秋の入り口で予想よりもずっと寒く、ハイウェイの両側に何処までも続くピンク色のヤナギランの花が移り行く季節を象徴していた。楽しみにしていたアンカレッジ南のポーテージ氷河では、氷河の割れ目の神秘的なブルーを実際に見ることができ感動したが、冷たい雨に打たれて長居はできなかった。天気はずっとはっきりせず、何度もにわか雨に降られ、何度も虹を見た。3日間いたデナリでもマッキンレーの山頂が見えたのはほんのわずかだったが、マッキンレーではその前々年、植村直己が冬季単独登頂後 に遭難していたこともあって、白い山容がはるか原野の上に浮かび上がったときは少々ジンと来た。

 アラスカは本当に広大だ。野性動物もたくさんいるのだがあまりにも広すぎて目立たない。最も目についた哺乳類は車にはねられてハイウェイに横たわるジリスかもしれない。ムースも見たかったのだが、とうとう一度も目にすることはなかった。国立公園内ではシャトルバスのすぐ近くにグリズリーが何度も出てきて驚かされたが、かえってサファリパークみたいで感動が少なかった。むしろ谷を隔てた遙か遠くに、ゴマ粒のようなグリズリーが2、3頭ゆっくりと歩いていくのを見た時のほうがアラスカの広さが感じられ、 
  「本物のグリズリーだ。」
という気がした。

 あのアラスカ行きはわずか一週間ではあったが僕にとっては本当に大きな旅で、その後数ヶ月はボーッとしていた。星野道夫のカレンダーはそのときの厳しく大きなアラスカの自然を思い出させてくれた。
 そしてちょうどその頃、小説新潮の臨時増刊というかたちで「マザー・ネイチャーズ」というグラフィック雑誌が発行され、そのなかでまた星野道夫の写真に出会うことができた。その雑誌には毎号と言っていいほど彼の写真が掲載されていたし、第2号からは「イニュニック(エスキモーの言葉で「いのち」の意味)」と題してアラスカの生活を綴った文章も書き始めていた。とくにうまいとは思わなかったが、アラスカの自然や、アラスカの人々に対する彼の愛情がひしひした伝わってくる文章だった。
 僕の手元には5号までしかないので「マザー・ネイチャーズ」がいつまで続いたかは知らないけれど、1994年1月からは月刊誌「シンラ」に引き継がれた。最初は後継誌とは知らず、女房が買ってきたものを
 「昔あったマザー・ネイチャーズによく似ているが、あっちのほうが良かったな。」
などと言いながら読んでいた。


 自然指向の雑誌「シンラ」は今では僕の愛読誌になっているが、読み続けるきっかけになったのは池澤夏樹の「ハワイイ紀行」という連載のせいだった。彼は「マザー・ネイチャーズ」の創刊号にも文を書いていたのだが、そのころのはちっとも記憶に残っていなくて、「ハワイイ紀行」ではじめてその情景描写の的確さに魅せられた。あとから彼が埼玉大学の物理学科を中退していることを知り、その描写が理科系のセンスによるものだと納得した。
 「ハワイイ紀行」以後、彼の作品を拾い読みしていたのだが、「南鳥島特別航路」という文庫本で僕はもっと前に池澤夏樹に出会っていた事を知らされ驚いてしまった。この本1989年から90年にかけて、日本交通公社発行の雑誌「旅」に連載されていた記事を集めたもの で、その中の五島列島の章は確かに読んだ覚えがあった。普通の紀行文と少々毛色が変わっていて、火山性の五島列島の成り立ちや波に削られた断崖の地層の描写など、随分専門的だなと感じ、記憶に残っていたのだった。(この機会に本棚を探したら、このときの「旅」が出てきた。1989年1月号だった。)


 星野道夫の「イニュニック」も「シンラ」創刊2年目の1995年1月号から「ノーザンライツ(北半球のオーロラのこと)」として連載が再開された。連載は彼の死によって中断されてしまったのだが、「シンラ」10月号に星野道夫レクイエムとして池澤夏樹が追悼文を書いている。星野と池澤の結びつきは、おそらく「マザー・ネイチャーズ」の頃から雑誌を介して始まったのではないかと思うが、その追悼文の中で、星野道夫がアラスカへ定住することになったきっかけについて、びっくりするような事を書いていた。

 星野道夫とアラスカの関わりの一番の始まりは、神田の古本屋で見つけたアラスカの本に載っていたエスキモーの村の空撮写真に魅せられ、19歳の時にその村へ行き、一夏を過ごしたことであることは、彼の著書「アラスカ、光と風」で知っていた。しかし、すっかりアラスカに行ってしまうきっかけになったのは、中学以来の親友が山で死んだことだったと言うのだ。
 星野がTと書いている友人は1974年の夏、妙高連山の焼山の頂上付近でキャンプしているときに、10年以上活動の無かったこの火山の突然の噴火に巻き込まれ、仲間の2人と共に亡くなっている。そして、この時亡くなった3人は僕の大学の同じ学科の3年先輩にあたる。

 僕が千葉大に入学したころ、松戸の園芸学部の食堂の前に三本のベニバナトチノキが植わっていて、誰かから登山中に亡くなった先輩がいる事を聞いた。 そのトチノキは同級生が植えた追悼の記念樹だという。その木はおそらく僕が入学する前年か前々年に植えられたもので、その名のとおり、薄紅色の花がまだ薄くて柔らかい黄緑色の葉陰に揺れていた。
 入学後、山登りを始めていた僕に、山で死ぬということを目に見える形で表していたその トチノキを、いつも僕は特別な想いで見ていた。
 当時珍しかったその花の写真を撮った記憶があったので、学生時代の古いアルバムを探してみたら、少々色褪せてはいたけれど、確かにあのマロニエの写真が残っていた。


 池澤夏樹の追悼文を読むと、星野道夫がアラスカの自然と同じように、ヒグマに対しても愛情を持ち、そして良く知っていたのが分かる。
 星野はアラスカのクマのなかで最も危険なのは、国立公園にいるクマだという。大勢の観光客が訪れる国立公園では、本来、クマが人間に対して自然に保つ距離が取れない状況になってしまっている。人間との距離感が麻痺してしまっているクマとの遭遇は事故が起こりやすいというのだ。

 池澤は書いている。
 「彼は基本的に銃を持たない。銃をもつと銃に頼りすぎて、動物と対面する場面で必要な緊張感を失い、不用意な行動をしてしまう。その方が問題だと考えていた。グリズリーと何度も関わって、そのたびにグリズリーがその時々きちんと的確に自分の感情を表現するのを読みとっている。だから手の中に銃があるばかりに、脅威でもないものを脅威と妄想して撃ってしまう方を恐れた。クマを軽んずるのではない。クマに対して必要にして充分なだけの畏怖の念が彼にはあったのだ。」

 「シンラ」の記者によれば、事故の一週間ほど前、朝食時に一頭のクマが一行に気がついて近寄ってきたという。こういう時、普通、人が大声を上げたりすればクマは逃げていくのだが、このクマはいくらそうしても怯まず、石を投げてようやく追い払ったそうだ。 そのクマがやっと立ち去るとき、星野は
 「イヤな奴だな。」
とつぶやいたという。
 クリル湖畔はマッキンレーほど人は多く入らないだろうが、研究者などが寝泊まりするロッジも数ヶ所あり、ここのクマはかなり人に慣れていたようだ。
 イヤな感じがあったにもかかわらず、ロッジではなくテントで寝ていたのは、集団での仕事で自分の空間が欲しかったからなのか。そしてどこかに、そばに人がいるという安心感があったからなのか。
 アラスカで、しかもいつものように単独であったならば、こんなことにはならなかっただろうに。


 植村直己が遭難したときにもまさかと思った。彼は本当に用意周到な人で、南極点への犬ぞりによる単独到達が夢で、エスキモーから犬ぞり操縦の技術を習い、予行演習として犬ぞりによる単独北極点到達とグリーンランド縦断までなし遂げてしまった。あんな用心深い、忍耐強い人が遭難死するとは思ってもみなかった。
 そして、あんなにクマのことを良く知っていた星野道夫がヒグマに襲われて亡くなるとは。自然相手に絶対ということは無いと分かっていても。
 


 週刊朝日に掲載された池澤夏樹による星野への弔辞が僕の気持ちも代弁してくれている。

 『アラスカに、カリブーやムースやクマやクジラと一緒に星野道夫がいるということが、ぼくの自然観の支えだった。
 彼はもういない。僕たちはこの事実に慣れなければならない。残った者にできるのは、彼の写真を見ること、文章を読むこと、彼の考えをもっと深く知ること。彼の人柄を忘れないこと。それだけだ。』


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 星野道夫の死は、今年の夏、僕にとってほんとに衝撃的な出来事だった。僕にとっての星野道夫の死の意味を整理しておかないと、どうにも落ちつかない感じだった。
 今思えば、僕のあのアラスカ旅行は夢を叶えるために努力ができた最後の旅だったような気がする。歳をとるに従って夢などという青臭い一途な憧れを持ち続けるなんて気恥ずかしくなってしまうし、若さ故の漠然とした不安といったものも日々の生活のなかで擦り切れてしまった。
 アラスカは僕にとっては、そんな忘れてしまいがちになる感情を思い出させてくれるものだった。そのアラスカへの想いを星野道夫が繋いでいてくれた。
 星野道夫が亡くなり、もう彼の写真や文章によって、心のアルバムにアラスカのページが増えることは無くなってしまった。そろそろこのアルバムを本棚に納める時期かもしれない。
  
                                 1996/10/29
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1986/8/2-8
アラスカキャンプ旅行


Matanuska Glacier
 


ポーテージ氷河
 



 


マッキンレー山北峰


カリブー


Tahneta Pass

 

 

 

 

 


SINRA創刊号
表紙写真はKennan Ward

(SINRAは2000年7月号を最後に休刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ベニバナトチノキ
(千葉大学園芸学部キャンパス)

 

 

 

 


デナリ国立公園のビジターセンター
近くに現れたグリズリー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


星野道夫の写真の前でインタビューを受ける
池澤夏樹

1997/11/15
六本木オリンパスギャラリー
「星野道夫写真展」のトークショーの後で

 

 

 

星野道夫 紹介
 

○年譜
        
      
        
      
        
  
        
  
        

 

 

 

1952年 

1971年

1976年
 

1986年

1990年

1996年

千葉県市川市に生まれる

初めてアラスカに渡り、シシュマレフ村でエスキモーの家族とひと夏を過ごす

慶応義塾大学経済学部卒業。動物写真家田中光常氏の助手となる。
アラスカ大学野性動物管理学部に留学

第3回アニマ賞受賞

第15回木村伊兵衛賞受賞

取材先カムチャッカ半島クリル湖畔でヒグマに襲われ急逝

○著作 写真集

「グリズリー」 (平凡社) 1985/11   英語版「GRIZZLY」 1987
「ムース」 (平凡社) 1988/6   英語版「MOOSE」 1988
「アラスカ 極北・生命の地図」 (朝日新聞社) 1990/5
「Alaska 風のような物語」 (小学館) 1991/7
「アークティックオデッセイ 遥かなる極北の記憶」 (新潮社) 1994/6
「GOMBE―ゴンベ―」 (メディアファクトリー) 1997/9

  著作

「アラスカ光と風」 (六興出版) 1986/7
「アラスカたんけん記」 (福音館) 1986/11 
「イニュニック」 (新潮社) 1993/12
「森へ」 (福音館) 1993/12
「旅をする木」 (文藝春秋社) 1995/8
「森と氷河と鯨」 (世界文化社) 1996/12
「ナヌークの贈りもの」 (小学館) 1996/6   英語版「NANOOK'S  GIFT」
「ノーザンライツ」 (新潮社) 1997/7
「たくさんのふしぎ―クマよ」 (福音館) 1998/3                            他

 

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